住職のコラム集 精進料理 |
小川文甫住職のコラム−V |
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“怨は徳を以って報ぜよ” |
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釈迦の説かれた法華経の教えの中に、人が幸せになることを妨げる原因として「欺、怠、瞋、恨、怨」があると示されています。 「欺(ぎ)」とは、騙すことですが、他人を騙すのではなく、自分自身を騙すことです。人は時として「このぐらいはいいだろう。誰もがやっているのだから。」というように自分で巧みに自分自身に言い訳をしながら自分を欺いています。それが続くと本当に正しいことが曖昧になり、自分が信じられなくなります。こうなると他人を信じることなどできなくなります。今、信じられない夫婦や、信じあうことのできない親と子が多く、悲惨な事件が続く原因の一つになっています。 「怠(たい)」とは、ういういしい情感をなくしてしまうこと。「瞋(しん)」とは、怒り、憎むこと。あっちへ行っては人の悪口を言い、人のせいにして憎むこと。「恨(こん)」とは、生きている間にうらむことです。「怨(えん)」は、死んでからも尚、うらむことです。怨霊といえば、亡くなった人が祟(たた)ることです。幽霊は、「恨めしや」ではなく、「怨めしや」になるのです。 なぜこんなことをお話しするかと申しますと、今、世界に吹き荒れているテロや紛争の原因に、怨があると思うからです。亡くなった方の怨(うらみ)を生きている者が恨(うらみ)を晴らそうとしているのではないでしょうか。これではどこまでも怨が続きます。 伝教大師最澄上人はご遺誡(ゆいかい)の中に「怨(うらみ)を以(もっ)て怨に報ぜば、怨止まず、徳を以て報ぜば、怨即ち尽く」とお示しになりました。人が本当に幸せになろうと思うなら、また、平和な世界を望むなら「怨」や「恨」を捨てなくてはならないのです。怨をたち切るためには徳を積むことです。私たち人間は生まれおちた時、ご先祖様からたくさんの徳をもらって生まれてきます。しかし、生き方によりその徳が失われるのです。その失った徳は、善行を重ねるしか増やす方法はないのです。その手立てとして、何の見返りも求めない奉仕の心、困ってみえる方がおられるなら愛の手を差しのべること、さらには常に感謝の言葉を口にすることが大切です。 さて、先日、御嵩小6年生全員が修学旅行に出かける前、御嵩の文化遺産を知るために願興寺に研修に来てくれました。児童たちの目は輝き、元気な挨拶に接することが出来て、大変嬉しく、また頼もしく思いました。先生方の適切なご指導に感謝しています。また後日、児童から感想文が届き、さらなる指導に行き届いた心配りを感じました。研修の当日にも感想にも、「ありがとうございました。」という感謝の言葉がありました。人間社会で生きていくための心の言葉、家庭の中で最初に父母から学ぶもの、父母から貰った宝物―言葉は魔物、不思議な生き物です。体に受けた傷は治るけど、心の傷は治りません。言葉は言霊、相手に差し上げ、自分に戻ってきます。常に感謝の心を念ずれば心穏やかに、さらに何時か怨も失せましょう。 最後になりましたが伝教大師のお言葉に「悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他に利するは慈悲の極みなり」とあります。そんな自分になりたいものです。 合掌 トップページ |