住職のコラム集








精進料理


小川文甫住職のコラム-Ⅳ




“小さな光で輝いてみたい”


 新緑も深まり、何ともいえぬ柔らかな気の流れ、清々しい静寂、時には可愛い小鳥の歌。つい、私は手も心も休め、苦から離れた気がします。私たち人間の苦しみは、2500年前、釈迦が説かれた法華経第25品偈、即ち観音経の中にみられる生老病死であり、今も尚、人は同じ苦を持っています。第一に、生きていかねばならない苦。なぜ此処にいるのか、なぜ生かされているのか、生きる理はあるのか、これほどまでにと悩む無明苦。さらに、老いて体が思う様に動かぬ苦。そして病に倒れ、やがて死を迎える。その恐ろしさは最たる苦しみです。誰にもいつかはやって来る、免れられない実相です。
 元気に一生懸命働いていた人が病(心を含めて)で倒れたり、事故で亡くなったりします。それこそ諸行無常です。世の中は刻々と移り変わり、一つの処に定まることなく流れています。自分が今何処にいて、何処に向っているのか不安になります。
 私たちは、宇宙の大きな流れから見たら仮の存在であり、一時的に神仏からお借りした生命です。何十億年と言う宇宙の営みの中で、私たちの天寿は百十余年、大体は80~90余年の一期です。宇宙に時間からしてみれば顕微鏡でも見えない光、それほど小さい私たちです。それなのに、細やかなことに囚われ、心と身体を費やし、苦しんでいます。偉大な宇宙の中に溶け込んでこそ初めて、時分の安心立命ができるのですが、煩悩を離れることはなかなかできません。
 今、尚、多くの人たちに慕われている良寛さんは、こんな歌と言葉を残しています。
「裏を見せ、表を見せて散る紅葉かな」
「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是ハこれ、災難をのがるる妙法にて候」というのです。これは、「踠(もが)けば踠くほど深みにはまる。だから災難の趣くまま自然体で過した方がよい。死する時も同様である。災難や死に遭ったら、逆らわずに現実を受け入れ、病む時は病むのがよろしい」ということです。私たち凡夫ですから、なかなか良寛さんのようにはまいりませんが、病気と素直に向き合って治療に努め、あとは神仏に祈るのみです。
 今、私たちは、人間の体(約60億の細胞と200兆個の腸内細胞、さらに無数の微生物と共生する物体)を持ってこの世に生まれたことを当たり前のように思っていますが、実はとんでもないことなのです。奇跡の中の奇跡、例えば宝くじを買って、その宝くじが千回以上も連続して3億円が当たる。それよりも奇跡に近いとされています。前世の因により現世があり、現世の縁によって来世が結果としてあります。その来世に、人間に生まれえるのか、畜生に生まれるのかは因縁によって決定されるのです。
 山川草木、宇宙森羅万象、悉く仏の声とし、今ある自分に感謝し、諸行無常に逆らわず人と和合し、互いに励まし合って、尊い人生を過したいものです。
 あなたがいるその場(ところ)が一隅です。あなたのお陰で無明を離れ、小さな光で輝いてみたいものです。
合掌