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V.兵火による焼失と再興 しかし残念なことに、115年ほどを経過した天仁元年(1108)9月19日、兵火により願興寺の本堂・諸堂全てが灰燼(かいじん)に帰すという出来事になってしまいました。翌年、灰燼に帰した願興寺を金日坊なる願興寺の塔頭(たっちゅう−脇寺の住職)が、せめて本尊を安置できる本堂だけでも復興をとの思いで、比叡山から俊増法師を招じ、遠近の人々に呼びかけ、本堂が再建された。 鎌倉時代に入り当地の地頭職を務めていた武将纐纈源吾盛康とその子康能が、仏得高き薬師如来を安置する本堂以外、荒れ果てた姿であることをはかなんで、財貨や田畑を寄進し、十日ごとに市日を定め(中地区の十日市場)、貴賎の上下や僧や俗人の区別なく、喜捨を得、復興に着手しました。このとき諸堂、塔の造営再興と、大般若経600巻の修補を完成し、釈迦如来坐像及び脇侍の普賢・文殊菩薩像、四天王像、十二神将像を奉納安置し、この地の名刹として再び人々の前にその姿を現しました。 その後、本尊薬師如来の脇侍日光・月光菩薩が、この地を広く治めた土岐頼宗・頼康によって修補安置され、この段階で薬師如来を中心とする仏教世界が願興寺に揃ったのです。また、阿弥陀如来立像、運慶作と伝えられる金色の阿弥陀如来坐像が奉納安置されています。 |
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釈迦三尊像 |
阿弥陀如来坐像 |
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