その4(2度目の兵火による焼失と民衆による再興)
その後、再び戦国動乱の時代になり、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)する世を向かえ、再び戦火に巻き込まれることとなりました。それは、元亀3年(1572)、甲斐国を拠点とした武田信玄が東濃地方に侵攻、諸所に放火し当山も罹災しました。
このとき、願興寺の北西の山中にあった、大智山愚溪寺の僧侶らが兵火に燃え盛る願興寺に駆けつけ、炎に包まれた本堂・諸堂から本尊薬師如来をはじめ諸仏を避難させ、後に諸尊仏が雨露に濡れるのは勿体ないと、愚溪寺の西の山に藁屋を営み、一人の僧が朝夕に供養を続けたました。こうした愚溪寺の僧侶の献身的な働きにより、現在、我々が諸仏を身近に拝顔できる状況にあるのです。これも信仰の力と言って過言ではないでしょう。
戦国動乱の世の中で戦火により灰燼に帰すこととなった願興寺は、しばらく焼け落ちたままの姿で放置されていました。地元の人々により日ごろから「お薬師様」「大寺さん」と言って親しまれ、信仰の拠点となっていた願興寺の惨状は庶民の心に大きな傷を残しました。天正3年(1575)、地元の玉置与次郎とその義兄市場左衛門太郎とが一念発起し、願興寺の再建に乗り出し、地域の一庶民の薬師に対する信仰心のみでの復興が始まることとなったのです。再建は困難を極めたのですが、やはり彼らと思いを一にする民衆は多く、それぞれが提供でき得るもの、建設への労働力や食糧の提供であったりと、様々な形で力が集結され、天正9年(1581)、遂に再建事業を成し遂げたのです。現在、我々が目にする事のできる願興寺本堂が正にそれなのです。
本堂自体は県内でも他に類例を見ない大きな建物で、非常に立派な本堂ですが、民衆の力によって建立されたものである特徴が、建物の随所に見ることができます。まず、本堂正面と背面の造りが著しく違うということです。正面は立派な体裁を整え、背面はなんら装飾も無い造りとなっていること、さらには、部材も様々で欅(けやき)あり松ありと不一致。加えて曲がりくねった柱材の使用という点が代表的な例です。これは財力も無い民衆の努力であり、何とか自分たちを庇護(ひご)してくれているお薬師様に報いようと言う思いの結晶といっても過言ではないでしょう。また、願興寺本堂の平面構成にも特徴があり、本堂を構成する柱一間(ひとま)分の外周が回廊となっている点であります。学術的にはその構成を「四周一間通り」と言います。
この回廊空間は、実は本堂須弥壇上(しゅみだんじょう)に安置された本尊薬師如来の利益を得るため、四方八方からすがれるよう配慮されたものだと言われており、病の平癒、家内安全を願った民衆がこの回廊の上に上がり、薬師如来の利益を得るため一心に手を合わせている光景が目に浮かびます。
このように願興寺は長い歴史の流れの中で、為政者によって支えられたり、民衆によって支えられたりしてきましたが、基本は全て民衆の信仰に対する熱い思いによって、今日まで1000年以上この地に存在し続けています。これからも100年、500年、1000年と守り伝えるべき貴重な文化遺産であり、その原動力はやはり志ある人々の思いであると考えてやみません。
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