天台宗を支えた僧たち


願興寺所蔵の大般若経600巻

  

三代天台座主
円仁
(794〜864)10年に及ぶ唐滞在で天台教学と密教を修し、天台宗発展に寄与する
 794年下野国(栃木県)に生まれた円仁(えんじん)は、15歳にして比叡山に上り、最澄より摩訶止観の奥義を伝授された。その後、遣唐使に任命され、数回の天候不順にあったが、838年7月2日に入唐を果たす。五台山で天台教学を修めた後に、長安へ赴(おもむ)き密教を学び、幾多の経典を書写する。その間に金剛界、胎蔵界(たいぞうかい)の灌頂(かんじょう)をうけ、蘇悉地(そしつじ)の大法も授かる。長安では僧たちが、民衆に分かりやすい言葉で節をつけながら町中で繰り広げる「俗講」に心打たれる。847年に帰国した円仁は、比叡山に戻り、五台山で学んだ天台教学を伝え、俗講から得た感激を山の念仏ともいわれる常行念仏として広めた。
円仁(慈覚大師)坐像
 ※金剛界:無量無数の一切の如来たちと身体と言葉と精神が1つに集合した絶対界
  胎蔵界:胎蔵は母胎のことで、一切を含有すること
  灌 頂:阿闍利により法を受けるときの儀式
  蘇悉地:真言を称えることにより達しうる効果
  
五代天台座主
円珍(814〜891)5年間の入唐後、円密一致の教義の充実に努める
 逆卵型の特徴ある風貌(ふうぼう)であったとされ、こうした相の持ち主特有の、明晰(めいせき)な頭脳の持ち主であったとされている。讃岐国の生まれで、空海の血縁であった円珍(えんちん)が、真言宗ではなく、天台宗の僧となったのは、諸説あるが明確なものはない。
 15歳で比叡山に上った。12年間で四種三昧(ししゅざんまい)の修行を終えた。32歳で教理教学の責任者である学頭に任命されている。853年に入唐を果たした円珍は、円仁の果たせなかった天台山に入り、天台大師智の足跡を巡礼し、天台宗に関わる多くの典籍(てんせき)の書写も行った。その後、円珍は長安を訪れ、密教の金剛界、胎蔵界の灌頂(かんじょう)を受けるとともに、蘇悉地(そしつじ)の大法まで授けられる。帰国した円珍は、868年に五代天台座主になり、円密一致という日本天台宗の理念を徹底させている。日本天台宗と中国天台宗の教義の狭間(はざま)に立って、それまで不明確だった円密一致を、法華経と密教は同列であると円珍は説いたのである。

円珍(智証大師)坐像
 
十八代天台座主
良源 (912年〜985年)比叡山の地位を学問、教団的に不動のものとした
 最澄と同じ近江国の生まれで、父方は帰化人を先祖に持つ木津氏の人であった。12歳で比叡山に上った良源(りょうげん)は、裏付けある弁舌の人であった。比叡山は当時、東塔、西塔、横川(よがわ)があったが、最北端で円仁が開発し、当時、荒れていた横川(よがわ)周辺を整備した。40歳で阿闍利(あじゃり)となり、55歳で天台座主となった良源は、最澄の忌日に催される法華会に広学堅義(こうがくけんぎ)を加え、論議の場とすることで、教学の発展の基盤とした。横川に常行三昧堂が建立されるなどで、講会や広学堅義が盛んに行われ、学僧たちが競い合い、比叡山はかってないほどに発展した。
 ※阿闍利:師範たるべき高徳の僧、修行が一定の水準に達し、伝法灌頂により秘法を伝授された僧


源信942〜1017)念仏による極楽浄土を浸透させ、浄土信仰の基盤をつくる
 法然や親鸞に影響を与えた「往生要集(おうじょうようしゅう)」を著した源信(げんしん)は、大和国(奈良県)の生まれである。9歳で比叡山に上った源信は31歳で広学堅義を及科して、宮中の論議でも一躍、名を上げた。母から「名利を求めるのではなく、真の仏道を極めよ」と告げられた源信は、あるとき、予感を感じて実家に向った。実家では母が臨終の床についていたという。源信に予感があったと告げられた母は、仏の契りと喜んで、念仏を唱えて亡くなったという。
 源信が「往生要集」を執筆し始めたのは、そんなことが原因であるといわれている。往生要集は、日本の浄土信仰の発展に寄与しただけでなく、宋の天台山にも伝えられ、それを読んだ天台山の高僧が激賞したとも伝えられている。念仏運動は幅広い層に受け入れられ、下級貴族から、民衆にまでも浸透していった。


慈円(1155〜1225) 歌人としても名を成し、名門出身であるが仏法に邁進した
 摂政関白藤原忠通の子で、関白九条兼実の弟であった慈円(じえん)は、60歳で辞するまで4度天台座主に就任している。これは当時の教団が家柄や親、兄弟の権力によって出世が決まることへの反発で自らから辞したものであろう。こうした矛盾から逃れるには、厳しい修行に打ち込むしかなかった。西行に真言密教の教えを乞うたとき、西行から「歌の心得がないものには真言の大事がわからない」と言われ、歌に打ちこんだという。西行から真言の大事を学ぶことはできたが、歌の魅力に取り付かれ、歌への情熱が覚めやらぬ時期もあったという。
 歌を通じて後鳥羽上皇と深いつながりを持つようになった慈円は、公武共存の道を探るが、平安王朝文化の天皇親政を目指す後鳥羽上皇は、慈円の意見を取り入れなかった。後鳥羽上皇の行き過ぎを思いとどまるように歌を贈り、「愚管抄(ぐかんしょう)」を表わしたが、後鳥羽上皇の宣旨(せんじ)で幕府打倒を目指した承久の乱が、勃発してしまった。


真盛(1443〜1495) 社会清化に専心した無欲の説法智者
 伊勢国の生まれの真盛(しんせい)は19歳で比叡山に上る。その後、20年間は一度も比叡山を下りることなく、天台教学の修学に励んだ。25歳で阿闍利になり、大乗会の講師をつとめる。20年間の修学中は、わき目もふらず一心に学問に打ち込み、栄達を夢見ていた時期もあった。転機になったのは、39歳のとき母の最期を看取ったことである。母を失うことで、世のはかなさを感じ、それまでの栄達を願う生活に無常を感じたとされている。
 法然ゆかりの比叡山黒谷青竜寺で隠遁生活に入る。隠遁生活で真盛がたどり着いたのは、念仏への道であり、その心を確実にしたのが源信の「往生要集」であった。念仏こそが衆生を救う道であると確信し、比叡山をおりた真盛は教化活動に邁進し、往生要集を講義した。
 無欲清浄を説き続けた真盛には、弟子達への遺言として「無欲清浄に念仏せよ」という言葉が残っている。

天海 (1536?〜1643) 家康の帰依で比叡山の復興に尽くし、関東天台宗の礎を築く
 家康の側近として、徳川幕府の礎(いしずえ)を築いた天海(てんかい)は名僧でありながら、その一生は謎に包まれている。没年は分かっているが、生年は諸説で45年もの開きがある。そうなると生涯は90年から135年もの開きとなる。出自も足利氏であったり、明智光秀その人という説まである。
 江戸城内の論議の場で家康に認められた天海は、比叡山の復興を命じられて、信長の焼き討ちで荒廃した諸堂の再建に力を注ぐ。比叡山が現在も仏教の殿堂としての位置を保っているのも、天海の30年に亘る復興事業の継続にあるといって良いだろう。
 比叡山が朝廷の権力下にあったため、関東天台法度を制定し、天台教団の中心を関東に置いたのは、家康であった。その全権を任されたのが天海であり、比叡山を再興し、関東一円の天台宗の教化に尽くした天海は、270年の日本の平和を築いた名僧ともいえる。因みに徳川家康は大権現(だいごんげん)の神号で呼ばれているが、これは天海が秀吉は大明神の神号で呼ばれていて、豊臣家は滅んだと指摘し、大権現の神号を主張したという。


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